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zoom RSS 城屋の揚松明09

<<   作成日時 : 2009/11/29 15:16   >>

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 「城屋の揚松明」は、すでに何度も書いているので、ここは拾遺編… と言っても、書きかけ。永遠に終わりが書けそうにもない…

 参考(全体を知りたい方は)城屋の揚松明'09


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 祭とは、ヒミツがめくるめくほどに織り重なった
めげそうなほどにエロチックな、エロっぽい、本来はそうしたもの。
そうでなければ、神々が喜ばない。
村には禍がもたらされた。
そう信じられた。
という。

クソ真面目すぎるだけの「祭」などは本来はない。
おかしな事でも研究している「おかしなヤツ」とは決して思われたくないので、誰も書かないだけのこと。
祭は役所の行事や学校行事とかPTA行事ではない。
クソ堅苦しいようなだけの「祭」は呪われ、禍がもたらされた。

私としてはそう写したいのだけれども、私も根がクソ真面目人間だから、どうあがいてもそうは写らない。
手持ちの写真をどう組んでみてもそうならない。

公序良俗に反する、風俗紊乱的なもの、そう現代人が勝手に考えていようなものは、古来伝わる出し物でも隠されてしまっている。
古老に問えば、
エロいもんも、あるんですがね、いつからかやりませんな。
あの道具はまだあると思います。
もう昔ですが、こんなことをしたんです。アハハハハ
などと教えてくれる。
しかし恥ずかしいので、教えて貰ったことは書かない。

「祭」とは名ばかりで、そんな現代風ばかりになりはてているが、そんなものならもうやめた方がよろしかろう。
などと思ったりもする。
特別の日の超ワクワクドキドキが消えると当然にも人が興味を失う、誰が行くかという気になる。
祭りがすたれる。
昔はものすごい人が集まった、人が昔みたいに集まらんなあ、較べもんにならなあ、と嘆くはめになってくる。
当然とも言えるかも知れない。

 ふと、原点に戻りたくなり、萬葉の昔を思ったりする…

巻九 1759
 筑波の嶺に登りて?歌(てうか)の会を為せし日に作りし歌一首
短歌を并せたり

 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(をとめ)
 壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふ?歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻
 に 人も言問(ことと)へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ
 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎(とが)むな
 ?歌は、東の俗語に「かがひ」と曰()ふ

 反 歌
男神に雲立ち登りしぐれ降り濡れ通るとも我帰らめや

『新日本古典文学大系』本の脚注には、

鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の辺りに、誘い合って男女が集まり、歌を掛け合って遊ぶ?歌(かがい)で、他人の妻と私も交わろう、私の妻に人も言い寄るがよい、この山を領治する神が昔から禁じていない行事だ、今日だけはいとしい妻も見るな、私のする事も咎めるな。
〈「?歌」は東国の言葉で「かがい」と言う〉

▽「?歌」は、常陸国風土記に「?歌の会、俗、宇太我岐(うたがき)と云ひ、又、加我毘(かがひ)と云ふ」(香島
郡)。「かがひ」は動詞「かがふ」の連用形の名詞化。
筑波山では、春秋二季、集まった男女が歌を掛け合って行う性の開放祝祭があった。「詠(うた)へる歌甚多くして載車(のす)に勝(た)へず・俗の諺に云く、筑波峰の会に娉(つまど)ひの財を得ざれば、児女(むすめ)とせずといへり」(同上・筑波郡)。
「裳羽服津」は所在未詳。「めぐしもな見そ」の「めぐし」も未詳。解釈に諸説がある。仮に「妻子見ればめぐし(米具
斯)うつくし」(八〇〇)の「めぐし」と同語、「めぐし妻」の意に解しておく。「うしはく」、既出(八九四)。
「禁 イサム」(名義抄)。訓注の「東の俗語」は、既出(四三一解題)。


人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ
この山を うしはく神の 昔より 禁めぬ行事ぞ
今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな


 虫麻呂が大好きになってしまうところ。
現代社会がおかしくなっているのか、もっとも表向きだけの話だけれども、
それとも太古の社会がおかしかったのか、
などと
わからなくなってくるところ。
誰も自信をもって答えることなどはできない。

そんな目つきで見るな、咎めるな、そんな掟はないのだ。
今宵一夜だけは神々は禁じていない。
今日一日だけは禁じていない。
今日だけは特別の日。
ドンドンタンタンと太鼓が重低音のリズムを刻んでいく、
踊りの輪にはいろう、朝まで続くのだ、
篝火が燃え上がる、
何のためのものと思っているのだ、
さあ燃え上がれ、オマエも。

この歌垣の会で何もなかったような娘は帰ってきても、不吉な者、あるいは神聖なものとして、二度と家の敷居をまたがせなかった。そのまま山へ送り返された、と諺にいうのだそうである。

もし子が生まれたらどうするか、
心配はいらない。
それは神の子だから、
実子以上に大切に育てられたという。


 記紀や『常陸国風土記』ばかりでなく、
「摂津国風土記逸文」には、
歌垣山
 摂津の国の風土記に曰はく、雄伴(おとも)の郡。波比具利岡。此の岡の西に歌垣山あり。昔者、男も女も、此の上に集ひ登りて、常に歌垣を爲しき。因りて名と爲す。
亀岡の西側・大阪府豊能郡能勢町に歌垣小学校があり、その東側に歌垣山(553米)がある。この山のことかはわからないが、上のような記事が残されている。

「伊勢国風土記逸文」には、
五十鈴 (参考)
五十鈴と曰ふは、風土記に云はく、是の日、八小男(やをとこ)・八小女等(やをとめら)、此にこぞり逢ひて、?樹接(いすすきまじ)はりき。因りて名と爲す。

「肥前国風土記逸文」には、
杵島山
杵島の縣。縣の南二里に一孤山あり。 坤のかたより艮のかたを指して、三つの峰相連なる。是を名づけて杵島と曰ふ。 坤のかたなるは比古神と曰ひ、中なるは比賣神と曰ひ、艮のかたなるは御子神 一の名は軍神。動けば則ち兵興ると曰ふ。郷閭の士女、酒を提へ琴を抱きて、歳毎の春と秋に、手を携へて登り望け、楽飲み歌ひ舞ひて、曲尽きて帰る。歌の詞に云はく、
  あられふる 杵島が岳を 峻しみと
  草採りかねて 妹が手を執る。 是は杵島曲なり。

『続日本紀』にも、
天平6年2月1日 天皇は朱雀門に出御して歌垣を見た。参加者は男女二百四十余人で…
宝亀元年3月28日 葛井・船・津・文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人が、歌垣に奉仕した。その服装は、青く摺染めを施した細布の衣を着て、紅の長い紐を垂らし、男女が互いに並んで、列を分けて緩やかに進み歌った。…




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人間も生物であって、優れた子孫、次の世代を残さねばならない宿命というか、責任を全成員が背負いながら生きている。あるいはそうした生物プログラムが生まれながらに全細胞に組み込まれた生物として、普段はそれに気も付かずに生きている。人間語でいえば、恋とか愛とか呼ばれるプログラムになろう。
そうだとすれば、古代のこうした制度は、意外と、現代人から見れば意外にも、優れた制度、次元の違うレベルで、根本的に優れている制度、だったかも知れない。
人間も生き物の一つとして見てみれば、何も同じオスメスの組合せの子孫ばかりはそうたくさんは必要がない、いくらかは組合せの違う子孫がいてもいいではなかろうか、混じっている方がいいのではなかろうか、
何も組合せが違えば優れた子孫でもなかろうが、いろいろ組合せが違う子孫がある方が全体としてはいい、
いいかも知れないなと考えてみたりもする。

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 『倉梯校百年誌』(昭52)の座談会

弥三郎 大正ころには青年団活動が盛んになりましたね。団員も大ぜいでしたし、思い出も多くありますな。
友二郎 今、観音堂の横にある建物は青年団の集会所に村の援助で、植林を払い下げて村が建てたんです。
池田  観音堂は、古い与保呂川の東側、竹之内さんの角のところにあったんです。川を渡るのが都合悪いゆうて、瀬替えのころに今の場所へ移したんです。観音さんの盆踊りは盛んでしたなあ。
弥三郎 今の踊りとは比べもんにならんですなあ、相撲もあったし…。
友二郎 青年団の図書館もあったんやないか…。
弥三郎 何んぞことやとゆうと観音堂へ集るんやった。古い方はもう少し大きなかつたかな。
友二郎 風紀の矯正などにもとりくみました。自分が団長のころ、「夜這い」の風習をなくするのにも努力しました。これが矯正されたのはこのあたりでは早い方やったと思います。


夜這い(よばい)などは大正の頃まではあたりまえにあったように語られている。




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